現在の豊岡を作った1925年当時の人々の「夢」に思いを馳せてみたい。

1925年は北但大震災のあった年。豊岡の再生が始まった年。
大正最後の年。
世界で、自動車や豪華客船や飛行船、ラジオや映画が普及して生活が激変しつつあった年。
パリ万博の年。
お菓子と旅行カバンとシンボリックな空間で描く豊岡の旅立ちと近代都市への夢。
さあ、「豊岡1925」という駅<メトロ>に降り立ってみよう。

「豊岡1925」の由来

1925年は、豊岡に壊滅的な被害をもたらした「北但大震災」が発生した年です。当時の人々は、地震・火事に強い町を目指して、道路幅拡大や、耐火建築の促進に取り組みました。

その震災復興建築として、1934年(昭和9年)に建てられたのが、「兵庫縣農工銀行豊岡支店」です。設計は関西を拠点に活躍した渡辺節が手掛け、1階開口部上部のアーチ、レリーフなど当時の洋風建築の要素を取り入れた重厚な造りとなりました。長年、人々の生活を支える銀行として活躍したのち、豊岡市役所の南庁舎別館として利用されてきました。現在は、近代化遺産として、登録有形文化財に指定されています。

豊岡の街並みの大きな特徴となっている「寿ロータリー」も同時期に整備されたものです。碁盤状の市街地にシンボリックな空間を創り出し、当時の地方都市としては近代的な街並みが実現していきました。こうして、今の豊岡の街並みが作り上げられました。

1925年は、近代化への道を踏み出した現在の豊岡の始まりの年なのです。

同時期の世界に目を向けてみると、自動車、豪華客船、飛行船といった機械や、ラジオ、映画という新たなメディアの普及により、生活が激変していった年でもあります。パリでは、パリ万国博覧会(現代産業装飾芸術国際博覧会)が開かれ、アール・デコという言葉が誕生しました。

豊岡が、日本が、世界が近代化に向けて動き出していた1925年。

当時の人々はどんな「夢」を描いていたのでしょうか。その「夢」に少しだけ思いを馳せながら、昭和の時代にタイムスリップできる「駅」をコンセプトとして、「兵庫縣農工銀行豊岡支店跡」は「豊岡1925」に生まれ変わりました。

お菓子の館

豊岡1925から見て南東に行った所には、お菓子の神様・田道間守命(たじまもりのみこと)が祀られている中嶋神社があります。田道間守命が、天皇の命を受け、常世の国から持ち帰ったとされる『非時香実菓(ときじくのかぐのこのみ)』これは現在の「橘」を指しています。昔は果物の実がお菓子として代用されており、その中でも橘の実がお菓子の頂点とされていました。

このように豊岡とお菓子には深い関わりと歴史があります。その歴史を紡ぐのが豊岡1925。『お菓子の館』をテーマとして、橘を素材に使ったコンフィチュールや、お菓子、ドリンクを販売しています。

お菓子の神様 中嶋神社(豊岡商工会議所)

お菓子、かばん、復興への夢・・・
が行き交う時空の駅として

1Fに配置された大きな円形のショーケース。全国から取り寄せられたお菓子がずらっと並んでいます。色とりどりのお菓子に心が弾み、つい笑顔が溢れる「夢見るお菓子のショーケース!」をテーマにしています。

このショーケースを2Fのホワイエから見下ろしてみると、どこか見覚えのある形であることに気づくはずです。そう、まわりをぐるりと囲むタイル床は、豊岡のシンボル「寿ロータリー」を模しており、時空の駅を行き交う人の流れを表しました。

ショーケースの中央には、かばんのまち豊岡をイメージしたオブジェ。オブジェの最上部に配置された時計の針は、1925年の北但大震災が発生した11時11分を指し示しており、豊岡の復興と現代への出発を象徴しています。

デザイナー紹介:中崎宣弘氏

空間構想デザイナー、絵師。京都市立芸術大学卒業後、サントリーデザイン室。 主にウイスキー、ワインのラベル、ボトルデザインに関わる。 その後、サンフランシスコの自然科学博物館にて展示デザイン。 帰国後『サントリー山崎ウイスキー館』「ワインと花の丘」などを空間プロデュース。 亀岡市制50年『The<座>Kameoka』の舞台監督。 この間、ヒマラヤ、アフリカなど36カ国を旅しスケッチ。 著書『旅とデザイン ウイスキーから人、空間構想へ。』(淡交社出版)、『となりのボクちゃん。』(神戸新聞出版センター出版)